1章・吉村順三の木造モダニズム建築

手塚治虫展がやっているものと思い行った「茨城近代美術館」。

なんともう終わっていました(笑)

しかし、そこには水戸出身の横山大観などの常設展があり来てよかったと思いました。

そして、なによりこの建築は吉村順三が作ったもの!!

吉村順三といいますと、日本で彼の師匠でもあるレーモンドが始めた木造モダニズムを、より日本的にした事が建築史では有名です。

ただ、その日本的な側面が受け入れられてか、皇居新宮殿の設計に声がかかる(1968)などして更に名声をあげています。

この茨城近代美術館は1988年竣工ですが、その系譜をひいているように感じました。

水戸の歴史の面影と自然豊かな千波湖がある風景に合わせた平面的で素朴でありながら歴史的貫録を感じられる外観、手すりの意匠やトップライトが荘厳なイメージを作っていました。水戸といいますと江戸時代が特に有名ですが、それ以後の歴史ある水戸で起こった芸術を納めるのに相応しい美術館だと感じました。

■吉村順三■

1908年生まれ。

1928年頃、学生時代フランスの建築雑誌で日本の西麻布に事務所を構えているレーモンドの作品を見て、弟子入りすることを決めました。

レーモンドは当時、ル・コルビュジエよりも先んじてコンクリートの打ちっぱなしによるモダニズム建築を作っていました。その後、1933年の「夏の家」という作品(建築事務所)では、ル・コルビュジエの元で働いていた前川国男がヨーロッパから帰ってきてレーモンドのもとで働いた際聞いた「エラズリス邸案」を踏襲しつつも、木造でモダニズムを再現するという建築史に残る業績を残しました。

吉村順三は最初レーモンドの京都建築巡礼案内などもしつつ、更に「夏の家」でも働きました。

そして、レーモンドがユダヤ人である故に、日独防共協定が結ばれた関係で日本からインドを経由してアメリカに行き、それを追い掛けて1940年前後吉村もアメリカのペンシルバニア州ニューホープでレーモンドのもとで働きました。そこで住んでいたアメリカの木造住宅の「バーン」の体験が生きて、日本でレーモンドの木造モダニズムを活かしつつも、天井が高く展開する木造建築を作っていきます。

1962年の「軽井沢の山荘」は、それが最も生かされた建築で、「夏の家」のピロティのような部分の下で休めるスペース、開放的な窓を使った今から中三階まで続く垂直的にも水平的にも展開する木造建築、更に軽井沢の周りの自然と調和と有名建築となっています。

その後も木造のモダニズム住宅を続けつつも、公的な面では荘厳で壮麗な建築にも取り組んでいったようです。その例として1968年の皇居新宮設計や1988年の茨城近代美術館となるようです。

『磯崎新と藤森昭信のモダニズム建築講義』六耀社も参考にしました。

2章・アントニン・レーモンドと木造モダニズム建築

前章で木造モダニズム建築の日本の推進者・吉村順三を調べていたら、師アントニン・レーモンドも調べることになり、その代表作とも言える「夏の家」を描いてみました。

欧米で始まったモダニズム建築は、鉄とコンクリートで表現されるものでありました。

しかし、モダニズム建築の形態や工法が確立していく内に、日本においてアントニン・レーモンドが木造において実現します。

そして、木造と日本の建築は親和性が高く、日本のモダニズム建築は独自の発展を遂げていきます。

その木造モダニズム建築ともいえる流れの始まりは、この1933年『夏の家』にあります。

昭和初期の木造建築でありながら、連続窓による開放感のある居間、そして上部に開放感のある中二階とそれを結ぶ階段など、今までにない建築でした。

それは日本の建築工法を学びつつも、アメリカの木造小屋(バーン)の発想とル・コルビュジエなどのモダニズム建築の考えを取り入れて作られたものであったのです。

こちらの建築は移築されて、現在も軽井沢にあります。

ただ、このレーモンドは、その後日本からアメリカに行き、アメリカ軍の日本空襲のための焼夷弾の実験に貢献しています。ドイツはコンクリート・鉄・石など爆発による空襲がメインでした、その実験により日本は爆発せずとも燃やすだけで効果的だと気付いていったようです。

難しいものですね。

■アントニン・レーモンド■

1888年生まれで、日本でいえば満州事変の石原莞爾、ヨーロッパならヒトラーやヴィトゲンシュタイン世代です。

チェコスロバキア出身ですが、学生時代、建築学科の奨学生を助けるためのパーティーの資金管理担当をするが、そのお金を着服しアメリカに行きました。

 その後、1919年、日本の旧帝国ホテルを設計することになる師匠ライトを追ってと、着服の件で国際手配されていたのを逃れるため日本に来たようです。

 師匠ライトの元を離れ、後藤新平邸などの建築を手掛けるとともに、1926年西麻布に自邸を建てます。この自邸は、世界において二番目にコンクリートの打ちっぱなしを活かした建築でした。当時は、建築の打ちっぱなしはみずぼらしい感じがして採用されませんでしたが、レーモンドが思い切って自邸で実現しました。この流れはル・コルビュジエも後に影響を受けていったほどで、レーモンドが自身もこの自邸の価値が上がっていったのを感じ、1931年、この自邸についての本を出版し、先駆者のひとりであることをアピールしています。

 その後、1933年には木造においてル・コルビュジエのモダニズム建築を実現するなど、コンクリートの打ちっぱなしの先駆者であると共に、木造モダニズム建築の開拓者になります。レーモンドは細かいディティールにこだわるタイプの建築家で、真逆な性格のル・コルビュジエと違ったからこそ、新しい流れを作れたのでしょう。その後も、木造の教会など木造でありながらモダニズム建築を発展させていきます。

 日本は太平洋戦争が進むにつれて鉄やコンクリートは軍需品とされ欠乏したため、住宅における木造の可能性がより重要視され、レーモンドのモダニズムはより浸透したようです。

 ただ、彼はユダヤ人であったため、1937年、日独防共協定が結ばれた関係を受けて、アメリカのペンシルバニア州ニューホープへインドを経由して移住します。そのとき、日本人の弟子でもあった吉村順三などが後を追って、アメリカンのレーモンドの事務所で働きます。

 そして、1943年、日本によるアメリカの本土空襲や日本の本土空襲の本格化するための計画として、アメリカ軍にレーモンドが招かれ、レーモンドが日本の下町を再現し、焼夷弾の効果性を確認する結果になったようです。

 戦後、再びレーモンドは日本に戻ってきて、占領の文化戦略の一環として日本に来たリーダーズダイジェスト社の建築などを手がけ、また木造とは違う形でモダニズム建築を作っていきます。

 その後、群馬県の音楽堂を作ったりしますが、レーモンドが手掛けるはずで手掛けなかった群馬の美術館の話が磯崎新に流れて「群馬近代美術館」を作る流れにもなっていくようです。

※『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築講義』六耀社も参考に執筆Posted in 20世紀ソシオ・ヒストリア日本Tagged アントニン・レーモンドモダニズム建築吉村順三建築建築史木造

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